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2009年11月 アーカイブ

2009年11月02日

カイコの蛹はタンパク質を多く含み

カイコの蛹はタンパク質を多く含み、アミノ酸原料として用いられることがあった。鯨ひげもケラチンなどのタンパク質からなることから、同様に利用された。

大豆粕(現在の脱脂加工大豆)は、油脂製造の副産物として得られる。また、海草を原料として用いたケースもあった。ほかにおからやフスマを使用したこともあった。

大門一夫により毛髪の研究の一環として、人間の廃毛髪を原料としたアミノ酸溶液の製造が試みられたとされる。製造方法は毛髪を塩酸で10時間程度、煮て加水分解してアミノ酸やペプチドに分解することで醤油に良く似た水溶液を作り出していた。しかし、揮発成分に乏しく香の点では本物に劣っていた。現在ではオートクレーブを用いて短時間で製造することも可能である。
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池田菊苗のアミノ酸研究の一環として、さまざまな原料を用いたアミノ酸液製造の実験が行われた。その方法として、原料を塩酸で煮沸することでタンパク質を加水分解してアミノ酸としたものを、水酸化ナトリウムで中和することで、中性の食塩水溶液としたアミノ酸液を得ることができた。代用醤油は、主にこのアミノ酸液に風味をつけたものである。現在、大豆および小麦を用いて作られたアミノ酸液は、醤油諸味および醤油と混合することで、醤油とすることができる。

2009年11月13日

伊藤博文は

伊藤博文は天皇を中心とした君主制を維持するためにも、天皇を補佐する世襲貴族(華族)の必要性があると認識していた。したがって、選挙による選出である衆議院とは対照的に、貴族院は世襲貴族をその中心に据えた。河野敏鎌は議員の地位を世襲とせず、華族による互選を主張したが、伊藤は「今世襲議員を貴族院より除くは取も直さず世襲貴族を廃するに同じ」と拒絶した。

貴族院関係法令の起草は金子堅太郎が担当した。金子は、当初、「元老院」と仮称していたが、伊藤博文は外国の元老院は選挙による選出だから今回の議院とは性質が異なると否定し、その結果「貴族院」に決定した。これは貴族中心の議院であることを積極的に表現し、天皇の藩屏として純粋な君主主義の立場を取り、民主主義に対抗する役割を期待されていた。また、当初の伊藤は政党内閣は事実上主権(国体)が天皇から政党に移るから認められないと考えていた(もっとも、伊藤は後に立憲政友会を結党)。そこで、貴族院は衆議院の政党勢力と対抗する存在と位置付けられた。第二次世界大戦前にも婦人参政権の導入、労働組合の容認、帝国大学の増設などの法案が議会に提出され、衆議院では可決されているが、こうした「進歩的内容」の法案が貴族院を通ることは決してなかった。
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ただし、藩閥政権に対してもある程度の自立性を持ち、衆議院とその地位を競った結果、藩閥政権を幾度となく窮地に陥れてもいる。逆に、政権が政党に妥協した時には反政党の立場から政権と対立したこともある。1900年、伊藤の増税案に対して、貴族院は政友会の党利党略を理由にこれを否決した。手を焼いた伊藤は明治天皇に貴族院が法案成立に協力するよう求める勅語を出させ、従わせたことがある(貴族院はその性質上、勅語には従わざるを得ないのである)。したがって、保守的であるが単純に藩閥政権の手先ともいえなかった。

大正デモクラシーの時代には貴族院に対する改革・廃止論議が起こり、加藤高明内閣は若干の改正を行った。しかし、貴族院の基本的権限には手をつけられなかった。

2009年11月27日

廣松渉

廣松 渉(ひろまつ わたる、男性、1933年8月11日 - 1994年5月22日)は、日本の哲学者、東京大学名誉教授。福岡県柳川市蒲池出身。出生地は山口県厚狭郡山陽町(現在の山陽小野田市)。東京大学文学部哲学科卒。同大学院博士課程修了。筆名は門松暁鐘など。妻の妹は加藤尚武夫人。

廣松渉の政治思想には共産党員であった母の影響が強いと言われる。 1946年、中学1年生の時に日本青年共産同盟に加盟。 1949年4月、高校進学と同時に日本共産党に入党する。1950年の50年分裂では国際派に所属し、 1951年に国際派の「全国統一会議」が解散した後は、党に戻らず全日本学生自治会総連合(全学連)などで活動。高校中退、大検で東京大学に入学をする。

当初、廣松渉はエルンスト・マッハに対する関心が強かったが、指導教官の勧めもあってカント研究に専念することになる。その後、東京大学大学院に進学。1965年に博士課程を単位取得退学している。
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政治的な思想面では1955年7月の日共第六回全国協議会(六全協)を受け復党するも、翌1956年に出版した共著書『日本の学生運動』が問題とされ離党した。1958年12月に共産党と敵対する共産主義者同盟(ブント)が結成されると以降、理論面において長く支援し続けた。1967年創刊の『情況』は、廣松が当時の金で100万円援助して、創刊されたものだという。創設者の古賀暹によれば、いったん断ったが、喫茶店で上半身の服を脱ぎ、さらしから100万円を出し、「男が一度出した金を引っ込めることはできない」と言われたことから、創刊を決意したと言う(荒岱介『破天荒な人々 叛乱世代の証言』(彩流社2005)古賀暹インタビュー)。 ソ連・東欧の社会主義体制が崩壊しつつあった1990年にはフォーラム90sの発足にも関わった。

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