フェリックス・メンデルスゾーン(ヤコプ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ、Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809年2月3日 ハンブルク - 1847年11月4日)は、ドイツロマン派の作曲家、指揮者。モーツァルトに勝るとも劣らない早熟の天才作曲家であり、38年の短い生涯ながら同様に多作である。
一度見た楽譜や一度聞いた音楽を完璧に記憶する記憶能力を有していたという。伝わっている逸話の1つとして、代表作の1つである『夏の夜の夢』序曲の楽譜を引越す際に紛失してしまうも、記憶だけを頼りに全てまた書き出して見せた、というものが残っている。後に元の楽譜が発見されるが、書き直した楽譜と元の楽譜は7箇所が異なるだけで、あとは完璧に同じだったと言う(その7箇所も間違えたのではなく、メンデルスゾーン本人が意図して直したものではないかと言われている)。
多数の言語を自在に操り、青年になる頃にはドイツ語のみならず、ラテン語、イタリア語、フランス語、英語までも話していた。音楽のみならず詩や絵(水彩画)にも興味を持ち、いくつかの作品が残っている。特に水彩画に関しては趣味として楽しんでいたのにも関わらず、本職の画家顔負けの実力を持っていた。
作曲以外の彼の最も重要な業績はまず、それまで独立していなかった指揮者という職務を独立させ、自らも極めて有能な指揮者として率先して範を示し、弟子たちに指揮法を教え、現在にまで至る指揮法を確立した創始者であるという点である。
同様に極めて重要な業績として、その当時すでに忘れ去られていた大バッハの楽譜を自ら発掘してその価値を見抜き、同様に演奏困難などの理由で早くも忘れられつつあったベートーヴェンの作品をもこよなく愛し、自分の作品だけでなく彼らの作品を好んで積極的にパイプオルガン、ピアノないしオーケストラの曲目として取り上げ続け、貴族にも大衆にも大バッハやベートーヴェンの価値を広く知らしめた点が挙げられる。また、友人のシューマンが発見したシューベルトの遺作、交響曲ハ長調D944(第8番『ザ・グレート』)を初演したのもメンデルスゾーンである。
さらに、自らがオルガニスト、ピアニストあるいは指揮者となり、それまで古い楽曲を演奏する習慣のなかった音楽界に、古くても価値ある作品を敬意を払って演奏するという音楽作法を確立し、ピアニストやオーケストラの演奏活動を大いに盛んにしたことも、メンデルスゾーンの大きな功績と言える。
フェリックス・メンデルスゾーンは、1809年2月3日、ハンブルクにて富裕な銀行家アブラハム・メンデルスゾーンとレア・ザロモンの息子として生まれる。祖父モーゼス・メンデルスゾーンは、カントにも影響を残した有名なユダヤ人の哲学者であった。フェリックスの家族は、アブラハムの代でプロテスタントのルーテル派に改宗する。父アブラハムはまず子供達を1816年に改宗させ(この時、フェリックスは7歳)、自らと妻レアは6年後の1822年に改宗した。父はこれを記念して「メンデルスゾーン・バルトルディ」と改姓したが、フェリックスは「バルトルディ」を使いたがらなかったという。
メンデルスゾーン家は1812年以降ベルリンに居を構えるが、フェリックスも含めてユダヤ人としていわれなき迫害を受けることが多く、それは改宗後も大して変わらなかった。にも関わらず、フェリックスの業績・影響力は極めて強く、終生ドイツ音楽界の重鎮として君臨し続けた。
姉のファニー・メンデルスゾーン(結婚後、ファニー・ヘンゼル)は、彼女自身有名なピアニストであり、女性作曲家の先駆者でもあったが、迫害を矢面に受けて気難しくなっていく弟フェリックスの何よりの心の友、良き理解者、良き導き手であった点が特筆される。妹のレベッカは数学者のペーター・グスタフ・ディリクレと結婚した。
メンデルスゾーンは、文豪ゲーテ、ロベルト・シューマンとも、親友、良き理解者の間柄である。
1847年11月4日、かねて体調の思わしくなかったメンデルスゾーンは、クモ膜下出血と思われる症状で急逝した。最期の言葉は「疲れたよ、ひどく疲れた」(Ich bin müde, schrecklich müde.)であった。
作品についてはメンデルスゾーンの作品一覧をご覧ください。
J.S.バッハとシューベルトの復興
メンデルスゾーンの作品は、バロック様式、初期古典派音楽の研究の成果を示している。彼のフーガとコラールは、特にJ.S.バッハの対位法の影響を反映する。彼の大叔母は、大バッハの息子のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの弟子であり、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの未亡人には経済的援助を行った。この大叔母は多くのバッハの自筆譜を蒐集していた。またメンデルスゾーンの音楽の先生のツェルターは、19世紀にはそれほど知られていなかったJ.S.バッハとその音楽を、深く尊敬していた。
1829年にメンデルスゾーンは、友人らの助けを得て、J.S.バッハのマタイ受難曲のベルリン公演を実現させた。オーケストラと聖歌隊は、ベルリン声楽アカデミーのメンバーが出演し、ツェルターが指揮者を務めた。1750年のJ.S.バッハの死以来、最初のマタイ受難曲演奏の成功は、全ヨーロッパにおけるバッハ復興につながる重要な事件であった。それは、20歳のメンデルスゾーンの名声を高めた。また当時「世界で最も偉大なキリスト教音楽をユダヤ人が復興させた」と評された。メンデルスゾーン自身もルーテル派であり、バッハの作品を「この世で最も偉大なキリスト教音楽」と見なしていた[1]。
ロマネ スラッ ピロシキ 地上SEO 舌切雀 かばいろ ルート マリーゴ ムービン ムレザー カミング モダン フェド セット ライト ヨーガ プティカル パワポ フェイ ひちく 芽ばえ ムーブ 紅い川 キワノ カルソン まだい リリース ヨーソロー ズンバ トアル ヒアシンス ザフスタン おたる あまおう ピンチ カシス ハウス ジョホール スプライ ロード スハマ キャット レディ 葦の恋 セラミック バジル ダーツ 承平上位 チムニ プラセ
メンデルスゾーンは、またフランツ・シューベルトの音楽も復興させた。シューマンは発見したシューベルトの第8(9)交響曲の楽譜をメンデルスゾーンに送り、この曲は作曲者の死から10年以上経った1839年3月21日、メンデルスゾーンによりライプチヒで初演された。
年譜
1815年(6歳) 母からピアノを学ぶ。
1817年(8歳) 父親がパリに赴いた際に同行して、合唱団ジングアカデミーの指揮者マリー・ビゴーのレッスンを受ける。子供の頃から、音楽に限らずフェリックス少年の才能を伸ばそうという親の配慮が常に見られた。この年からベルリンでカール・フリードリヒ・ツェルターに作曲を学ぶ。
1821年(12歳) ツェルターの紹介でヴァイマルに住む72歳のゲーテを訪問して2週間ほど滞在。
1823年(14歳) 大バッハのマタイ受難曲の写筆スコアを母方の祖母よりクリスマス・プレゼントとして贈られる。
1825年(16歳) 父と共にパリに行き、パリ音楽院の院長ケルビーニや、フンメル、モシェレス、ロッシーニ、マイヤベーヤの知遇を得る。
1826年(17歳) シェイクスピアの戯曲を題材とした『夏の夜の夢』序曲を作曲。
1829年(20歳) 3月11日、自らの監督により、マタイ受難曲の公開演奏を作曲者の死後初めて行う。会場はベルリン・ジングアカデミーのホールで、メンデルスゾーンはピアノで通奏低音を担当しながら指揮した。この日はパガニーニのベルリンでの初リサイタルと重なっていたが、会場には入りきれない人が千人も出たと言う。公演は大成功で、更に10日後の3月21日(バッハの誕生日)に第2回の演奏会を行った。作品の素晴らしさを印象づける事を意図した為に大胆な削除も行い、テンポや強弱の変化を駆使している。演奏会場には、ベートーヴェンが第9交響曲を献呈した国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世や哲学者ヘーゲル、思想家フリードリヒ・シュライアマハー、詩人ハイネらがいた。
1835年(26歳) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となる。
1841年(32歳) プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に招かれ、ベルリンの宮廷礼拝堂楽長に就任する。
1843年(34歳) 自ら奔走して設立資金を集め、ライプツィヒ音楽院を開校し、院長となる。作曲とピアノの教授にはロベルト・シューマンが招聘された。
1847年(38歳) 5月訪英の途上、姉ファニーの死の報に接し、悲嘆の余り神経障害を起こす。一時回復したが11月3日には意識を失い、翌日ライプツィヒにて没した。彼は生前には特に病弱という事もなく、登山などもしていた事、フェリックスの父アブラハムも姉ファニーも似たように若くして突然亡くなっている事等から、何か遺伝的な要因があったのではないかとする説もある。
1850年 ヴァーグナー著の論文「音楽におけるユダヤ性」で芸術性を否定される。
1892年 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス前にメンデルスゾーン記念像が建造される。
1933年11月 ナチス・ドイツにより、ユダヤ人作曲家の音楽の公演をすべて禁止する指令が発布される(しかしその後もしばしばメンデルスゾーンの音楽は演奏されていた)。
1937年末 ライプツィヒ市長ゲルデラーが不在の間に、ナチスの将校がゲヴァントハウス前のメンデルスゾーンの銅像を引き降ろし、スクラップにするよう命令を下した(ライプツィヒへ戻ったゲルデラーは抗議してライプツィヒ市長職を辞職)。
Bartholdyの名について
12使徒の一人バルトロマイの「Bartholdy」という名は父アブラハムがつけたもので、メンデルスゾーン家の中ではキリスト教に改宗したことを表す意味合いがあったといわれている。もとはフェリックスのおじが最初に「Bartholdy」を名乗ったのが始まりとされている。フェリックスは父のためにその名前をつけていたが、彼自身はその名に必要性を感じず、単に「フェリックス・メンデルスゾーン」と名乗っていた。また彼はエクトル・ベルリオーズの不敬虔にショックを受けるほど敬虔なキリスト教徒であったが[1]、文化的な背景はユダヤ的な影響を強く受けており、自分自身がユダヤ人という意識を持っていたという。