1359年にウズベクの孫ベルディベクが死ぬとバトゥ・ウルスではバトゥの王統が断絶し、1379年までの20年間に21人以上のハンが交代するという大混乱に陥り、キヤト部族のママイが黒海北岸を押えて大勢力となった。また東部のオルダ・ウルスでも王統がオルダの子孫から、ジョチの13男トカ・テムルの子孫に移り、トカ・テムル裔のオロスが支配した。
1376年、オルダ・ウルスにいたトカ・テムル裔のトクタミシュは、オロスと対立してティムール朝のサマルカンドに逃れ、ティムールの援助を受けて1378年にオルダ・ウルスの支配者となった。トクタミシュはサライに遠征してサライのハンの座につき、さらに1380年にはクリコヴォの戦いでモスクワ大公国に敗れて再起をはかる途上であったママイを破ってジョチ・ウルスの再統一を果たした。
しかし、トクタミシュは支援を受けたティムールと対立し、1395年、ティムールの大軍によるサライ遠征に敗れて没落し、マンギト部族のエディゲに倒された。これ以降、ジョチ裔の様々な家系に属する王族によりサライのハン位が争奪され、争奪戦に敗れた王族が他地方でハンを称して自立し、ヴォルガ中流のカザン・ハン国、カスピ海北岸のアストラハン・ハン国、クリミア半島のクリミア・ハン国が次々に勃興し、マンギト部族の形成した部族連合ノガイ・オルダや、大オルダと呼ばれるようになったサライを中心とする政権(黄金のオルド)などの諸勢力が興亡した。一方、東方の旧オルダ・ウルスではジョチの8男シバン(シャイバーン)の子孫がハンとして率いるウズベク(シャイバーニー朝)と、オロスの子孫がハンとして率いるカザフ(カザフ・ハン国)の二大遊牧集団が形成され、南シベリアではシビル・ハン国が誕生し、15世紀の間にジョチ・ウルスの政治的統一は完全に失われていった。
サライの大オルダ(黄金のオルド)は、1480年、モスクワ大公イヴァン3世に敗れてルーシの支配力を失った。大オルダは1502年にクリミア・ハン国によってサライを攻略されて滅ぼされ、カザン、アストラハン、シビルの各ハン国は16世紀の間に次々にロシア帝国に併合された。黄金のオルドのハン位の継承者を名乗った最後のハンとなったクリミア・ハン国は、1783年に至ってロシアに併合された。多くの場合、大オルダの滅びた1502年か、クリミア・ハン国が滅びた1783年をもってジョチ・ウルスの滅亡としている。
なお、ウズベクでジョチの子孫のハンが絶えたのは1804年で、カザフではロシア革命までジョチの子孫が王族として君臨しつづけた。
文化と制度 [編集]
4千戸のモンゴル遊牧民から発展しながら広大な領域を支配したジョチ・ウルスは、広大な支配地域のもとに多くのテュルク系遊牧民を含んだと推測される。このため、元来モンゴル系だった人々のテュルク化が進展し、勅令など支配者から発給される文書もテュルク語が使われた。また、イスラム教も早くに入り、2代ハンとなったバトゥの弟ベルケは即位以前からムスリム(イスラム教徒)であったことが知られる。しかし、ベルケを例外としてイスラム化はそれほど進まず、13世紀になってウズベクがスーフィーの影響で改宗したのをきっかけに、全ウルスをあげてイスラムに改宗した。ベルケやウズベク以降の諸ハンは、イスラムに改宗したことをきっかけにエジプトのマムルーク朝と友好を持ち、アゼルバイジャンをめぐって同族のイルハン朝としばしば争った。そもそもバイバルスをはじめ、マムルーク朝初期のマムルークたちが、ジョチ・ウルスの支配下で捕虜となるなどして奴隷としてエジプトに売られていったテュルク系遊牧民であった。
ルーシに対しては、諸公の任免の最高決定権を握り、決まった税金をサライに納めることや戦時に従軍することを義務付けたほかは、間接統治に委ねられた。それでも諸公たちは頻繁に税金を携えてサライに赴いたり、敵対する諸公との争いで不利な裁定をされたりしないように宮廷や実力者への付け届けを余儀なくされ、納税や従軍の義務を怠れば懲罰として遊牧民からなる大軍の侵攻を受けるなど、大いに苦しめられた。もっとも、この「タタールのくびき」と呼ばれるモンゴルの支配がどの程度の圧政であったか、またモンゴルの支配がロシア史の展開にどの程度影響を及ぼしたかについてはロシアの歴史学会では19世紀以来、大きな問題として議論された点である。例えば、モンゴルの圧制がロシア社会の発展を妨げたとする説、モンゴルの支配によってロシアへは東洋的な専制支配を自己のものにすることができたのだとする説、モンゴルの支配はロシアの社会発展に特に影響を及ぼさなかったのだとする説など、様々な意見が出されてきた。この問題は決着を見てはいない。いずれにせよ、北東ルーシの小国であったモスクワ公国のイヴァン1世が、ウズベク・ハンに取り入り、北東ルーシ諸公の収税を集めて遅滞なく支払う責任と引き換えにウラジーミル大公の位を獲得して、やがてロシア帝国へと発展してゆくモスクワ大公国を築き上げたことはよく知られた事実である。
「金帳」の支配者たち [編集]
バトゥ家の君主
ジョチ
バトゥ
サルタク
ウラクチ
ベルケ
マング・ティムール(モンケ・テムル)
トゥダ・マング(トダモンケ)
トゥラ・ブカ(トレブカ)
トクタ
ウズベク・ハン(ウズベク)
ティーニー・ベク
ジャーニー・ベク
ベルディ・ベク
バトゥ家断絶後の主な君主
クルナ
ナウルーズ
ヒズル
オロス
トクタキヤ
ティムール・メリク
トクタミシュ
ティムール・クトルク
シャディベク
ウルグ・ムハンマド
大オルダの君主
キュチュク・ムハンマド
アフマド・ハン
シャイフ・アフマド
系図 [編集]
ジョチ・ウルス系の後継諸政権 [編集]
・シバン家系諸政権
シャイバーニー朝(遊牧ウズベク、ブハラ・ハン国)1500年 - 1599年
ヒヴァ・ハン国 1512年 - 1920年
シビル・ハン国(シベリア・ハン国)15世紀? - 1598年
・トカ・テムル家系諸政権
ウルン・テムル系
カザフ・ハン国 15世紀後半 - 1865年
クリミア・ハン国 15世紀前半 - 1783年
カザン・ハン国 1438年 - 1552年
カシモフ・ハン国 1456年 - 1681年
キン・テムル系
アストラハン・ハン国 1466年 - 1556年(イヴァン4世の侵攻によりアストラハンを放棄)
ジャーン朝(ブハラ・ハン国)1599年 - 1789年
・非チンギス・ハーン裔のジョチ・ウルス系諸政権
ノガイ・オルダ - ジョチ家の重臣マンギト部族を核とする部族連合
スーフィー朝 - ジョチ家の重臣コンギラト部族の政権
コーカンド・ハン国 - シャイバーニー朝、アストラハン・ハン国に属しコーカンドを領有していたミン部族の政権
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